1920修行期1944

青函船
1920年
二月二十六日、北海道函館市にて出生。
1934年
高等小学校卒業。社会へと身を投じ、様々な職に就く。
1937年
上京。肉体労働や新聞配達に従事しつつ、売血の報酬でロシア文学を濫読する。
1938年
日活入社。脚本家としての道を歩み始める。
1939年
日活から東宝へ移る。演劇部に所属し、秦豊吉支配人の下で舞台芸術を学ぶ。
1940年
同社撮影所へ異動。円谷英二所長の下で特撮・アニメーション技術を学ぶ。
1941年
日本初のマリオネット映画『ラーマーヤナ』の脚本を担当する。
1942年
同人誌「文芸世紀」に戯曲『蟹と詩人』を、「北海道文学」に小説『おゆき』を発表する。
軍部の思想統制に抗う同人誌の出版を文豪太宰治らと計画するも、用紙の配給を受けられず断念する。

1945躍進期1957

丹後沢
1945年
戦争が終わり、文化において新しい時代を担うべく行動を開始する。
進駐軍の非行から市民を守るべく、任侠らとレジスタンスを結成する。
政府の対応が遅れていた海外抑留者の引揚げ運動に従事し、以後数年間続ける。
1946年
終戦一周年に際し、劇団「新浪漫劇場」を結成。演劇を通し、無駄死にと蔑まれつつあった特攻隊員らの自己犠牲精神に光を当てる。軍国主義を鼓吹する内容とみなされGHQに上演を禁止されるも、投獄覚悟で談判して容認を勝ち取る。
1947年
福島県に居を移す。同地に在住していた文学者富沢有為男らと交友する。
1948年
小説『哀怨の記』で第一回福島県文学賞を受賞。
結婚。長男を授かる。妻の実家がある大阪府へ転居する。
1951年
この頃から、沖縄を皮切りに、戦没者の遺骨収集活動を始める。約十年間継続し、事業を通じて政界人の知遇を得る。自費で行っていたが、園田直代議士らが賛助し、公費による支援が後に決まる。
1952年
海外抑留者家族の悲惨な実態を描いた小説『生きる葦』を上梓する。問題意識が政界から高く評価され、自由党の鳩山一郎代議士(後に首相)と社会党の松岡駒吉代議士(元衆議院議長)から序文を授かる。
1953年
テレビ放送が開始する。黎明期にあった最新メディアに未来を見出し、早期から積極的に関与する。
妻子を置き東京へ拠点を移した結果、家庭を維持できなくなり離婚する。この際、何らかの信念に基づき自ら断種手術を受け、実子を一人に確定させる。
1954年
この頃から、生活に窮し活動の主軸を純文学から大衆小説や映画脚本へと切り替える。以後、作家として軌道に乗り、複数の小説連載を抱え、数多くの脚本を執筆するようになる。
1957年
日本初のフィルム収録テレビドラマ『ぽんぽこ物語』(TBSの前身KRTが放送)の脚本を担当する。
日本テレビの「山一名作劇場」にて、テレビ番組ではそれまで中核の人間のみが載っていたオープニングクレジットに、技術スタッフも表示する改革を行う。裏方の職人こそが重要であるという認識による。

1958黄金期1988

電波塔
1958年
原作・脚本・主題歌作詞を務めたテレビドラマ『月光仮面』が大成功を収める。
最高視聴率67.8%を記録し、日本国における特撮ヒーロー作品の始祖として後世に多大な影響を与える。
1960年
自作の同名小説をモチーフにした歌謡曲『誰よりも君を愛す』が大ヒットし、第二回日本レコード大賞を受賞する。これを機に作詞家として本格的に活動を始め、以後、数多くのヒット曲を世に送り出す。
1964年
佐藤栄作内閣の政策顧問に就任。遺骨収集活動により通暁していた東南アジア諸国における、日本によるODA(政府開発援助)の実態調査を行う。以後、政界との関わりを深化させる。
1966年
映画『東京流れ者』の原作と脚本を担当。鈴木清順監督の演出と共に、作品の芸術性が高く評価される。
歌謡曲『骨まで愛して』を作詞。義理の甥にあたる作曲家北原じゅんが曲を作り、その弟の歌手城卓矢が歌唱した。大人気を博し、同年の紅白歌合戦で披露されたほか、同タイトルの映画化もなされる。
1967年
歌謡曲『君こそわが命』を作詞。歌手水原弘の人気を劇的に再燃させ、レコード大賞にて最優秀歌唱賞となったほか、この年を含めて三度の紅白歌合戦で披露される。
1968年
歌謡曲『花と蝶』を作詞し、第二回日本作詩大賞を受賞。
歌謡曲『伊勢佐木町ブルース』を作詞。名を付けた歌手青江三奈の代表曲となる。
紅白歌合戦にて、上二曲に続き歌手美空ひばりが『熱祷』を大トリで披露する。
1969年
親交のあった秦野章警視総監に依頼され、警察歌『この道』と機動隊応援歌『この世を花にするために』を作詞する。前者は警察学校において長く歌い続けられている。
1970年
国士として交流のあった文豪三島由紀夫の追悼集会にて司会を務める。
この頃から、政府の密使として中国高官と接触し、水面下の日中国交正常化交渉に携わる。
病床にあった作曲家平尾昌晃を励ますべく、『愛は不死鳥』を作詞する。歌を託された歌手布施明による紅白歌合戦での熱唱が話題となる。不死鳥がモチーフの鮮烈な衣装は、後の装束多様化の嚆矢であった。
1971年
歌謡曲『おふくろさん』を作詞。公私にわたり親交のあった歌手森進一の代表曲となる。レコード大賞で絶唱され最優秀歌唱賞となり、この年を含めて八度の紅白歌合戦で披露される。
1972年
特撮ドラマ『愛の戦士レインボーマン』の原作を務める。続けて放送された『ダイヤモンド・アイ』、『コンドールマン』と合わせ川内ヒーロー三部作と呼称される。
株式会社愛企画センターを創立。同社は上記三部作をはじめ、複数の川内康範関連作品に参加した。
1975年
後期の代表作である『まんが日本昔ばなし』を手がける。作品の構想から放送の実現まで主導し、数多くのエピソードの監修や、主題歌・エンディングテーマの作詞も行う。
1981年
映画『月光仮面 THE MOON MASK RIDER』の原作・脚本・監修を務める。
歌謡曲『命あたえて』で、第二回古賀政男記念音楽大賞を受賞。
1984年
グリコ・森永事件の犯人に対し、私財一億二千万円を供するので犯行を止めるよう呼びかける。
1986年
児童向けアニメーション作品『ドリモグだァ!!』の原作・脚本・監修を務め、万栄社の鈴木清道社長と共に手がける。

1989晩年期2008

記念碑
1992年
勲四等瑞宝章受賞。
1999年
日本レコード大賞功労賞受賞。
2001年
名誉市民であった青森県三沢市の公会堂に記念碑が建立される。
函館市、鹿児島県下甑島、神奈川県伊勢佐木町、東京都新橋駅前にも碑が存する。
2005年
国民新党顧問就任。自身が作詞・作曲した楽曲『おかあさん』を党歌として提供する。
2008年
四月六日、青森県八戸市にて死去。同年、日本レコード大賞特別功労賞及び日本作詩大賞特別賞を受賞。